ハニカムシティ

短歌と短文、妄想旅行記
短歌と短文、妄想旅行記
雪國ではひぐまはみんなかぶりもの湿った毛布を抱いて眠ろう

雪國ではひぐまはみんなかぶりもの湿った毛布を抱いて眠ろう

「グレゴール・ザムザが毒虫になるなら」矢継ぎ早に言葉を吐いた。「ある朝、先輩が気がかりな夢からめざめたとき、あたしがベッドの上で一匹の巨大な毛虫に変わってしまっているのに気づくこともあるでしょう」
 そうでもなければぴったり閉じた毛布の隙間から、いまにも先輩の冷たい声や冷たいまなざしや冷たい「どつきまわし」が侵入してしまいそうだったのだ。息を潜める。呼吸はやわらかな繭をふやかして、心地好い温度と湿度であたしの身体を包み込む。暗闇の向こうで先輩の気配が動いた。残り香はこんなにも此処にあふれているのに、なんだかとても淋しい。
「ごちゃごちゃ言ってないで」
「…………ぎゃっ!」
「さっさと起きろ」
「さっ……む! さむい! 最低! 人でなし! なまはげ!」
「なまはげは生皮を剥ぐ妖怪じゃねえ」
 とはいえあたしのノスタルジーなんて冷酷無情な先輩に通用するはずもない。生皮を剥がれた毛虫もとい毛布を没収されたあたしは蛹のように丸まってやがて動かなくなる。先輩はほんと害虫駆除がお上手ですねと文句を言いながらようやく上体を起こした。
「あ」
「コーヒーでいいか」
「雪だあ、先輩、雪ですね」
「そうだな」
「国境の長いトンネルを抜けると……ってやつですね。あ、先輩、『こっきょう』派ですか?『くにざかい』派ですか?」
「……引用が多いな、今日は」
「読書の秋、味わわないまま終わっちゃいましたから」
 これからは読書の冬にするべきですよ、一緒に革命を起こしましょうねと豪語しながら、ベッドの下に捨てられた毛布を拾い上げる。コーヒーの香りがこの部屋を包み込んで、ひとつの繭になるまでは。まだもう少し毛虫でいたいので、カフカの話を続けましょう。
東京駅で恋をする

東京駅で恋をする

梅雨入りて東京駅は海の底「またね」が云えずに踵を濡らす

明滅する右折ウィンカは回游魚 わたしは耳からくらげを生やす

もの欲しげな癖に今日とてもの云わずあなたの長い髪をみている

「丸の内線を満たして泳いでいるくらげみたいに有害な人」

有害と優柔不断は近しくて映画の話を装ってみる

きのう見た映画のせりふなんだけど、あなたのことがとても好きだよ
まばたきは よるのおとずれ

まばたきは よるのおとずれ

ツイッターでやったワードパレットの3つのことばを入れた短文を書くやつ(うろおぼえ)です

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15.ノイヤール/ごちそう、朝日、盃

 盃は疾うに空になっている。居酒屋のざわめきは心地好い環境音と呼ぶにはノイズが多すぎて、酩酊状態の過敏な耳には些かめまぐるしい。電子煙草を霞にしながら、とりとめのないことを考えていた。終電のこと。ペットのこと。来週の自分に委ねた仕事のこと。注文したきり運ばれない烏龍茶のこと。目の前で上機嫌に喋っている、彼のネクタイの結び目が僅かに弛んでいること。
「それで、それでね、先輩。ハムスターってやっぱり液体だから、まわしすぎると、分散されちゃうとおもうんです」
「ああ」
「でも、まわし車が密室だったとしたら、ほら、中学生の理科で習った、質量保存の法則? あれのおかげでハムスターはハムスターでいられるはずなんです」
「うん、そうだな」
「だから密室の扉を開けた瞬間ハムスターは…………ねえ、先輩、聞いてます?」
 聞いてるよと応えようか聞いてねえよと応えようかしばし思い倦ねた。冷めてしまったからあげをひとつ、口に含んでとりあえず「ああ、うん」と曖昧な相槌を打つ。ふたつ年下のこの顔の綺麗な後輩は、酒に酔うととにかくよく喋るのである。それも、なんだかよくわからない、哲学的というか、概念的なことを。愚痴や泣き言でないだけお利口ではあるのだが、真面目に相手をしているとこっちの頭がおかしくなってしまう。彼とふたりで盃を交わすようになって、随分と「聞き流す」ことが上手くなってしまった。
「聞いてないでしょ、先輩。…………でも、」息継ぎをするようにそこで言葉を切り、彼はハイボールを口に含む。つられて右手を持ち上げて――そうだ、お猪口もグラスも空っぽで、烏龍茶はまだやって来ないのだ。眉を寄せたのに目敏く気づいて、よくできた後輩は自分のジョッキをこちらに差し出した。そんな気遣いができるくらいならもう少し話題を選べよ、と、文句を言うのは後回しにして、炭酸水の冷たさで喉を潤す。
「でも、相槌は打ってくれるし、こうやって夜が更けるまで俺につきあってくれる、やさしいですね、先輩は」
「そう思うんならもうちょっと敬えよ、お前」
「うやまってますよ」
「嘘つけ」
 ジョッキを返しながら悪態を吐く。不本意そうに肩を竦めて、それでいて楽しそうに、男は枝豆を摘まんでいる。
 茹でたての瑞々しい湯気はすっかりただの水分に還って、陶器の皿に溜まってしまった。若鶏のからあげも。甘い味のだしまき卵も。どんなごちそうだってものの数分で経年劣化と呼ぶに相応しい姿に相成って、暗い木目のテーブルの上で流行り過ぎのポップスみたいに化石になっていく。「魔法がとけちゃうんですよ、シンデレラみたいにね」いつだったか、彼は冷めた料理をそんなふうに喩えてみせた。午前零時に馬車がかぼちゃに変わるとき、枝豆が化石に変わるとき、きっとこいつはハツカネズミに向かって量子力学の話をしているのだろう。本当に滅茶苦茶な男だ。
「うそじゃないのに」
 すこしだけ、拗ねたように口角を上げて、それから男は顔を伏せる。おいお前、寝るなよ、と箸の先を向けると、「寝ませんよ、今夜は寝ません。先輩には朝までつきあってもらいます」と忌々しいことをはっきりと宣言される。こうなってしまうと大抵は彼に流されて、始発を待ってしまうのが常である。どうしてこんなにこの男に弱いのか、この男に甘いのか、素面になって考えてみてもいつもいつも、答えは出ない。
「新宿駅から朝日を見ながら、ハムスターの話をしましょうよ」
 誰がするか、馬鹿。メニューの角で小突きながら左手は呼び出しボタンを押している。烏龍茶のゆくえを尋ねる、そのついでに、串揚げの盛合せでも頼んでまた、くだらない魔法にかかってしまおう。

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21.クラン・ドゥイユ/檸檬、跳ねる、視線

 檸檬って、爆弾らしいよ。このまえ、本で読んだんだよ。数歩前を歩く友人は振り返ることもなく、襟首の白を見せつけながらそう言った。
「梶井基次郎だろ」あー、なんか、そんな名前だった。「有名なひとだよ」ふうん、よく知ってるなあ、さすが図書委員。「図書委員は関係ないけどさ、」心地好い声は夏の温度に乱反射して、うしろを歩く私の耳を掠める。彼の声は、檸檬水のようだと、折りに触れ私は思う。涼やかに爽やかに肺に沁みるのに、いつもどこかせつなくて、喉が熱くなる。
「それならお前、いま、爆弾魔だな」
 何とはなしに口にすると、彼はようやくすこしだけ歩く速度を緩めてこちらを顧みた。その右手には彼のお気に入りの、レモンソーダが握られている。丸みを帯びたペットボトル。その透明にさかさになって、夕暮れの街がぶら下がる。
「爆弾魔なあ、たしかに」そう言ってふっと口角を上げて、相槌とともに一瞬の狂いもなく、唇は動く。こうして面と向かって言葉を、視線を交わすとき、私はいつも彼の檸檬に燃やされる。酸が骨を融かすように、私の身体はいくつもの泡になってしまって、なんだか泣きたくなる。爆弾魔だ、と、心の中だけで繰り返した。私の世界を、私の感情を、まなざしだけで破壊する。

「なあ、それなら一緒に、吹き飛ばしちゃおうか」
「…………何を?」
「うーん、社会とか」
「適当に喋るなよ、お前」
「まあ、うん、そういう、反骨精神とか、あんまりないよな、俺もお前も」
「俺は加害者側じゃなくて、吹き飛ばされるほうだよ」
「ん?」
「いつもお前がしっちゃかめっちゃかにしていくだろ、俺の秩序を」
「はは、お前の秩序を?」

 からからと笑って、不意に、彼が手を伸ばす。
 冷たい指先が掠めるように頬に触れた。瞬間、早送りのフィルムのように凍りつく、心臓が跳ねる、背後に迫っていた踏切で、遮断機の降りる音がする、赤いランプが斜陽に融けて、星座のように熱くなる。
「…………何」
 つとめて冷静な素振りをしようとして随分と不機嫌そうな、低い声を出してしまった。笑うしかないな、と我ながら呆れてしまう。男は、勿論笑っている。性格が悪いのだ。「怒るなよ、ごめんって。なんでもないよ」触れるだけ触れた指がすぐに離れていく、一瞬の通過電車を許すように。ほらそうやって壊していくのだ、この爆弾魔。人の気も知らないで。

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24. マル・ダムール/火照る、伸ばす、夜

 古びた戸建の屋根をぴしぴしと軋ませる、その台風の名前をわたしは知らない。だいたいたかが気象現象の、そのひとつひとつに律儀に名前をつけるのもどうかと思うのだけれど、能天気なかの男は「いいんじゃない? 名前があったほうが親しみやすいでしょ」などと宣って十二分の一の梨のかけらをしゃくりと齧る。
 男は、隣人である。「感じのいい、誠実そうな眼鏡の青年」と、「馴れ馴れしい、やたらと口のまわる眼鏡のクソガキ」を砂糖と卵白のように撹拌して焼き上げたかのごとき人物である。初対面の頃などはもっと「感じのいい」のわりあいが大きく、「感じ」だけではなく人あたりもよければ声の耳ざわりもよい砂糖細工のような好青年だったのだけれど、対面する度会話をする度卵白は空気を含んで、いまではすっかりこのふてぶてしさである。歳上のわたしに敬語を使わなくなったのも、人の家の縁側を我が物顔で占領し梨を喰うのもまあいいとして、わたしの愛犬とわたしよりも仲睦まじくしているのはどうなんだ。シロも嬉しそうだし。「安直な名前だね」なんてけちをつけてきた男の腹に、カスタードクリームのようにとろけてひろがって、幸福そうに眠っている。度し難い。

「君なら台風とも仲良くなれるんだろうな」
 精一杯の皮肉を込めて呟いたけれど、彼は「まあそうだね」としれっと肯定してくるのだから糠に釘である。菓子盆に手を伸ばすと、爪楊枝をなめらかに梨に突き立てて、魔法の杖のように掬い上げながら、わたしを見た。
「あなたとも仲良くなれたわけだからね」
「どこが良いんだ、どこが」
「違うの? 仲が良くなきゃ家に上げて梨を振る舞ったりしないでしょ、ねえシロ」
 わん。シロを味方につけるなと言いながらわたしも梨を齧る。いただきものの豊水は甘く瑞々しい。夏の夜の纏わりつくような湿気を割くように、さくり、目をみはるほどの涼やかさを閉じ込めたそれは、プールサイドか、打ち水か、通り雨を凝縮したかのように、白く透明で冷たいのだ。

「そんなに怒らないでくださいよ」
 たまに思い出したように丁寧語になる。成人男性にしてはやや細い指があやすように髪を梳く。他人の頭に勝手に触るな、習ってこなかったのかおまえは、と一発張り倒したいところなのだが、何故かわたしはそれができない。痛覚などないはずの傷んだ毛先が、ちりちりと焼けるように敏感になる。身体は火照るような、あるいはさんざめく星のようにきりきりと冷えるような、不思議なせつなさに襲われる。ああこれだから、こうなってしまうから、この男は苦手だ。目をあわせると昏い瞳にわたしの姿が映っている。ため息がふれあうほどに近づいて、男は微笑む。

「でもね、怒った顔も素敵だと思いますよ」
「わたしは君のそういうところが全面的に嫌いだよ」
「酷いなあ、ねえシロ」
「わん」
「シロを味方につけるな」
「僕はあなたのことが好きですよ」
「わん」
「…………シロに向かって言うな」
「わん」

晴れた日はさわやかな丘の上で――スリーヴス

 降り注ぐ日射しよりも、風はいくらか涼やかで心地好い。スリーヴスに到着したのはお昼どきであった。ブラン・リリー急行の、硝子のしかくに切り取られた街は、しぼりたてのミルクと、摘みたてのペパーミントで作ったアイスクリームのように、どこまでもどこまでも目の醒めるような青だった。

 スリーヴスは、ウルトラマリンブルーに輝く南の海に、ひょろりと突き出す左腕のような形をした、港町だ。海辺はさかなの市場や酒の飲める店がずらりと並んで、朝から晩まで賑やかな人々の笑い声がきこえる。
 スリーヴスの住人は、いわゆる「南国気質」とでも言うのだろうか、陽気でフレンドリーな性格のひとが多い。それでいて、どこか洗練されたスマートさも併せ持つ、一言でいえば「さわやか」な人たちなのである。夏はよく晴れ、それでいて涼しい風がよく通りを抜けていくのであまり気温が上がらない、過ごしやすい気候が影響しているのかもしれない。夏のさわやかさをぎゅっと凝縮させた町、それがいとしのスリーヴスた。
 長旅におなかを空かせていたわたしは、大きなえびが殻ごと炉端で焼かれていたり、ガーリックの焦げる匂いがたちこめていたり、そんな刺客たちに行く手を阻まれる度網の上のえびのようにぐにぐにと身体を曲げていた。わたしはこの地に、タメーリックライスを食べに来たわけではなくて、ここからもっと奥に入った、知人の家を訪ねに来たのである。このような誘惑には負けぬと肩をいからせて通りを進むけれど、髭面のおじさんにパプリカ・スナックを差し出された瞬間、いとも簡単に肩幅は融け落ちてしまった。
 わたしは旅行の楽しみの多くを、つい、食べ物に費やしがちで、それを度々反省はするのだけれど、こうして目の前でやわらかな湯気を立てられてしまえば形ばかりの反省など砂の城のごとき軟弱さで波に浚われてしまう。結局、パプリカ・スナックが入った紙コップと、ライム・ジュースの瓶で、両手を塞ぎながら通りを歩く羽目になってしまった。パプリカ・スナックは色とりどりのカラーピーマン(甘くて、肉厚のもの)を細くスティック状にしてスパイスをつけてからりと揚げたもので、さくさくの衣の中は甘く瑞々しく、非常に「ながら食べ」にふさわしいおやつなのである。今日のわたしは「歩きながら食べ」であるが、「映画を観ながら食べ」も大層魅惑的だ。

 そのあとも、時折試食を押しつけられては足を止め、を繰り返し、わたしはようやく港から離れた住宅地へとやってきた。
 海岸通りから離れたこのあたりは非常に静かで、涼やかな風が芝生を撫で、わたしの帽子もふわりとかすかに持ち上げるようにしながら、さわさわと遠くへ吹き抜けていく。目を瞑って耳を澄ますと、遠くに港のざわめきが聴こえる一方で、近くの家の開け放たれた窓からは、レコードだろうか、フリューゲル・ホルンとピアノの音がこぼれてくる。帽子がころがり落ちないぎりぎりの角度まで頭をもたげてから、目を開けると、あざやかな快晴と、まろやかな太陽、ゆっくりと天頂を移動する千切れ雲が見える。とても、さわやかだ。この町の、港のにぎやかさも、草原の清潔さも、わたしは大好きだった。

 さて、わたしが今回訪ねたのはシャット氏とそのご家族である。
 シャット氏は父の旧い友人で、文筆業をしている男性だ。食べ物の次に、いや、食べ物と同じくらい本というものが大好きなわたし、そして両親は、彼をよく家に招き、酒を飲み肴を食べながら読書談義に花を咲かせていたものだ。
 こんど、そちらの近くに行きます。よろしければ、ごあいさつに伺ってもよいですか。ブラン・リリー急行のメール・サービスを使ってそのような手紙を送ったところ、間もなく彼からは「大歓迎です」と短くもありがたいリプライが届いた。そういうわけで、わたしはいくつかのおみやげと、おみやげ話を抱え、スリーヴスを訪問したのである。
 シャット氏の邸宅は青い屋根と白い壁の、瀟洒な一軒家であった。呼び鈴を鳴らすと、しばらくして、ぱたぱた、というスリッパの音が近づいたと思ったら扉が内側に引かれる。出迎えてくれたのはご夫人であった。前にお会いしたときよりも、綺麗な白髪がさっぱりと短くなっている以外は、やさしい笑顔も昔のままであった。
 奥からシャット氏も現れて、わたしはそれぞれと固く握手をした。遠路はるばるようこそ、いえいえ、突然おじゃまいたしまして、いえいえ、あっこれはつまらないものですが、あっこれはなかなか、いえいえ、とひとしきり通過儀礼を行ったあとは、すっかり昨日振りの隣人のようにわたしたちは話をした。最近読んだ本の話。訪れた町の話。そこで食べたごちそうの話。わたしのおみやげ話に、シャット氏も、ご夫人も、頷き、微笑み、相槌を打ってくれた。
 お昼ごはんを食べていないことに気がついたのは一時間ほども話し込んだあとであった。さきほどパプリカ・スナックをつまんだはずのわたしのお腹がぐうと鳴って、はっと口ごもり、それで発覚した。
「きみが来たら一緒に、と思っていたのに、すっかり忘れていたよ」
 シャット氏が苦笑する。笑った拍子にぐう、隣でやや高くくう、とシャット氏とご夫人のお腹も鳴った。わたしたちは揃って、にやりと口角を上げる。

 ピクニックをしましょう、とご夫人が云った。スリーヴスの人々はピクニックが大好きである。朝、すこしお寝坊をした休日などには、必ずと言っていいほど、ブランチとレジャーシートを抱えて家の外へ繰り出していく。ピクニックをするうちに、楽しくなって、どんどん人と食材が増え、大規模なバーベキュー・パーティになってしまうことも珍しくないという。
 わたしと、シャット一家(シャット氏と、ご夫人と、ねこのマロ)は手早くピクニックの準備をし、大きなピクニック用バスケットとボトル、オレンジ色のレジャーシートを持って家の裏にある丘の上へと向かった。昼下がりの風は相変わらず心地好く、まことにピクニック日和である。意気揚々と丘をのぼるわたしたちのうしろを、ねこのマロが、のんびりとした様子でついてきていた。
 丘の上のすばらしい一等地に、わたしたちはレジャーシートを広げて腰を下ろした。ここに来るまでの、ほんのちょっぴりの運動が、よいあんばいに空腹を盛り上げてくれている。
 バスケットを開くと、ふわりとおいしそうな匂いがたちのぼる。今日のお昼ごはんは、まず、ご夫人特製のサンドイッチ。クリームチーズを塗って、スライスオニオンと自家製のスモークサーモンをはさんだものと、バジルソースで和えた鶏ささみと、トマトをはさんだもの。どちらもパンはほんのりと焼かれていて、グリーンリーフがはさんである。それから、フルーツサラダ。港でとれた小鯵や、白身や、えびをフリットにして、オニオンと一緒に甘いお酢であえたもの。
 おのおの、膝の上にギンガムチェックのクロスを広げると、ボトルからよく冷えたレモネードを注いで、乾杯をする。口に含むと、微炭酸のぱちぱちが、清々しく喉を通りすぎていって、あとにはときめくような酸味とほのかな甘味が残る。すかさず、サンドイッチにかじりつく。バジルソースの塩と、トマトのすっぱさがちょうどよい。フルーツサラダにはマカロニも入っていて、よく胡椒がきいていて、おいしい。
 わたしたちは夢中になってお昼ごはんを楽しんで、また、お話の続きも楽しんだ。非常にさわやかで、幸福な午後であった。わたしのおしりのうしろではねこのマロが、お酢であえていない小鯵をかじっていたが、しばらくしてお腹がいっぱいになったのか、わたしたちの会話に耳を傾けることもなく丸くなって眠ってしまった。マロの毛並みを風が撫でていく。見上げれば千切れ雲とともに、時間はゆっくりと町を流れていた。
雪密室に猫と、蛸

雪密室に猫と、蛸

上質な暮らしを描いたコミックが雪崩れてできる密室を解く

猫の手も借りたいけれどにくきゅうの踏み場もないよ爪たてるなよ

カップ麺のふたの上なら寒くないあなたのいない夜はひもじい

おまえ蛸飼ってるのかよ躾ろよ 靴ならべつつ悪態を吐く

洋服と洗濯物のあわいではひらたい爪がぼたんを外す



*****



 洗濯物って、どこからどこまでが、洗濯物なんですかねえ。砂埃にまみれた「ベランダ用サンダル」をつっかけて、あたしは室内に届くようにすこし大きな声を出す。
 ガスコンロを磨いていた先輩は真新しいタオルで丁寧に手を拭いてから、スマートフォンを取り出した。彼は律儀な人なので、わからないことはすぐ、調べる。調べたことはもれなく彼の教養になる。だから先輩は頭がいい。ばかで大雑把で部屋が汚いあたしとは大違いである。
「洗濯物。……洗濯を必要とするもの。汚れもの。また、洗濯したもの」
「ということは、洗濯する前もあとも洗濯物になるんですか」
「みたいだな」
「確かに脱いで籠に入れた瞬間も、洗って干して取り込んで、畳んでいるあいだも洗濯物ですね」
「お前、洗濯物畳むのか?」
 ソファの上に積み上げられている服の山をちらりと顧みて先輩が云う。あたしは「たまに」と応えながら、しかしあたしの部屋に来た先輩が見兼ねて畳んでくれることのほうが頻度としては多いかもしれないな、と密かに思った。あたしの先輩は立派で働き者なのである。
「どっちも同じ洗濯物だから、って汚れたものと一緒にしていないだけ偉いと思いません?」
「そのレベルになったらさすがに縁を切る」
「先輩は綺麗好きだなあ」
 のらりくらりと言いながら濡れたタオルをぱたぱたと振ってしわを伸ばしていく。しゃぼんの香りのむこう側で、顔をしかめる先輩の姿が見えた。綺麗な声で悪態の限りを尽くしながらも彼は、とっちらかったこの部屋に頻繁に足を運んでくれる。手のかかる後輩のことがなんだかんだかわいいのだろうと自分に都合のいい解釈をして微笑んだ。眼鏡についた水滴を拭って、スマートフォンをポケットに戻して、緩みかけたシャツの袖をまくり直す。その仕草をうすぐらい室内に見ながら、あたしもワンピースにハンガーを通す。
「つまり、あたしが着ているあいだは洋服で、あたしがすっかり脱いでしまったあとは洗濯物になるんですね。その境い目って、どこなんだろう? あたしがどれくらい半裸から全裸になっているかって話ですよね」
「阿呆か」
 高尚な問題提起はたった三文字で一蹴された。綺麗好きの先輩は下品な話を好まないのだ。怒らないでくださいよ、と口癖になった台詞でいなしながら(先輩はすぐに怒るのだ)、あたしは先輩の白い爪の堅さを思い出す。寝間着のボタンにそれが触れると、かちり、と軽い音がする。コンロを磨くように事務的で、生真面目で、緻密に、やさしくそれを扱う彼の指が、あたしは好きだった。口角を上げるあたしを見咎めて先輩は、さっさと干せよと一喝する。怒らないでくださいよ。
丸ノ内線は宇宙ステーションに止まりません

丸ノ内線は宇宙ステーションに止まりません

天気輪に現実投棄しにいこう夜は紺碧汽笛がひびく

カーディガンもラッコの上着も脱ぎ捨ててサンダル履きの少女は駆ける

四ツ谷駅と後楽園のあたりだけ夜空を走る 毛布に潜る

地下鉄を夜の匂いが抜けるときすこしうれしいすこしさみしい

「あの星はポラリス」「あれはからすうり」シングルベッドにさかさのままで
花に嵐は蒼く降る

花に嵐は蒼く降る

とめどない「いえないこと」はブルーレット置くだけで渦をまく真夜中

 トイレは嘔吐する場所でもある。いいたいこととか、いえないこととか、かなわないこととか。ぜんぶ流れて、綺麗になって、明日またうまく笑えるように、ねえ、地球の向こう側では、はんたいまわりに渦をまくって、ほんとかな?



クトゥグァなんてクリームシチューに浮かんでるバターのたまよりちいさいですよ

 天の川って乳が流れたあと、らしいですよ。先生が言ってました、銀河鉄道の夜の。だから地球もフォーマルハウトも、わたしにかかればひとくちですよ、ひとくち。



「天国に行こうか、」丸ノ内線の吊り輪に透かして君は笑った

 すぐに着くから、池袋。立ったままでも、いいよ。すこし低い左隣に規則ただしい旋毛が見える。引換券、ちゃんと持ったし、お財布もあるよ。ねえ、さいしょは、どこの国に行こうか。天国に行こうか。



さびついた銅貨とおなじ色をして甘いだけでは馬車にも乗れない

 チョコレイト、こんなに甘くておいしいのに、あのひとは東京を去ってしまって、こんなに甘くておいしいこと、風の便りなどでは届かないのでしょう。こんなに甘くておいしいのにな。こんなにあなたがいて、幸福だったのに。



燃え尽きたらそめいよしのの根のあたりで眠らず待ってて 魔法を見せて

 未明、透明な嵐に揺さぶられて、桜の樹は沈黙している。むせかえるような、湿った土の匂いがする。春の夜の匂いがする。爪を汚して、灰にまみれて、まだ出ない。あなたの死体がまだ出ない。



火星より空気穴より近づいて小指の影も融ける銀幕

 スクリーンからこのソファまで、手を伸ばせばふれあうほどに近いのに、銀幕スターと僕らの間には宇宙規模の隔たりがあるよ、だってほんとの名前も知らないし、好きな花の色も知らない。君は、君の好きな花の色も、そういえば僕は知らないね。だからこんなに遠いんだ、こんなに近くにいるのにね。「お前、映画はもっと離れて見ろよ」



神様に成ってもどうせ早起きはできやしないよ家賃払えよ

 ある朝半透明になって宙に浮いていたとして、それさあ、どっちかって言うと幽霊じゃない?、同じようなものだろ、それでも、どうせ俺は昼まで毛布に包まっているしお前もそうだ、悪癖は直らないし、染みついた死臭もそう簡単には消えない、お風呂入ってるのにねえ、だから、だから神様に、ならないでよ。



耳朶にニオイスミレを飾られて迦陵頻伽の話をしよう

 あなたが永い人生を終えるとき、わたしはその棺の中にニオイスミレを敷き詰めましょう。あなたの愛した小鳥と同じ、甘く香るうすむらさき色を、お花畑みたいに。そうしてあの子が迦陵頻伽になるのなら、きっと、淋しくないよ。



透明な夜に煙が染み込んでふやけた瞼に涼やかな月

 行き詰まると煙草が増える。あの夜もそうだった。冬は清冽で硝子の窓は凍るようだけど、弄ぶように指先で灰になるそれと、喉の奥だけが、熱い。



刺青を影絵のようになぞるだけ オフェリア、おとぎ話を教えて

 誰のものでもない影にオフェリアは、生きる意味と、おとぎ話を教えてくれたのです。ねえ、それって、ほんとうに、優しさだったのかな。それとも淋しさだったのかな。人さし指に感じるのは消え入りそうな微熱だけで、あなたの痛みはいつになってもよくわからない。



寄り縋れど花に嵐は降りそそぐ忘れられないことは呪いだ

 けれどそれは祈りでもある。そうやって生きてきた。灰色の空は渦をまいて、雨は視界を滲ませるけれど。蒼い花のあざやかさを忘れないように、わらい声のやわらかさを忘れないように、もう一度だけ、名前を呼んでくれないか。



***



CoCのじぶんの探索者をイメージして書いたやつだよ

かかとを鳴らして――トレミラ

 トレミラの街の入り口に設けられたブリキのアーチを、潜る前から既に芳ばしく小麦粉の焼ける匂いがたちこめていて、わたしの両脚は文字通り浮き足立っていた。
 トレミラは、ただしく云うとトレミラ・トロワ・トルークという非常にとろとろした名前の街で、むかしの言葉で「天国に向かって、かかとを鳴らして駈け上がる」というような意味らしい。なるほど、浮き足立った両脚はそのまま天国へすらも上っていけそうである。わたしはともするとふわりと浮いてしまいそうになる膝を必死に押さえ、かかとを踏みしめて、アーチを潜り、トレミラの街に足を踏み入れた。わたしにとってはぼんやりと白いばかりの概念でしかない天国よりも、このおいしそうな匂いの出処である地上の街のほうが余程楽園なのだった。

 トレミラは、ベーカリーの街である。
 大通りの右を見ても左を見ても、小洒落た店構えのベーカリーが並んでいて、わたしは花から花へ目移りするミツバチのように……或いは、へべれけの酔っ払いのように、通りを右往左往することになる。何を隠そう、わたしはパンが大好きなのだ。どれくらい好きかというと、白いお米くらい大好きで、鉄板ナポリタンくらい大好きで、よく晴れた土曜日の朝ごはんやおやすみ前のホット・ティーくらい、それはもう、大好きなのである。
 すこし前に滞在していた街のちいさな書店で、トレミラのことを紹介する雑誌の記事を見つけた瞬間、わたしはこの世に生まれてきたことを神様に感謝してしまった。パンの神様、パンの神様ありがとうございます。わたしはこれからも謙虚に誠実に生きて、耳までおいしくいただきます。購入したその雑誌を宿のベッドで広げながら、わたしは世にも幸福な夜を過ごした。あてのない旅をしているが、予習が必要なこともある。数十軒ものベーカリーが連なるトレミラでは、計画を立てて、厳選して買い物をしないと、ひとりでは到底食べきれない量のパンを買ってしまうことになるからだ。
 わたしはこの旅路に3つのルールを設けている。街を愛すること、人を愛すること、食事を愛すること。おのこしなんてもってのほかなのである。
 雑誌が、いちばんおおきく紙面を割いて「おすすめ」していたお店は、幸いなことに入り口近くにあった。わたしはけっこうミーハーなので、一番人気、だとか、絶対行くべき、だとかのこてこての賛辞に弱い。人知れぬ穴場にすてきな出逢いがあるのも確かだが、だからといって王道をとことん無視するほど斜にも構えられない、わかりやすく日和見な性分なのである。王道も、穴場も、両方をすこしずつ味わえるのがいちばんいい。

 現地のことばで「青いくつした」という名のその店は、名前の通り、青を基調としたお洒落な色合いの店であった。
 レジスターを挟んでカウンターの向こう側に、青いとんがり帽子を被った小柄な店員さんがいて、「いらっしゃいませ」とわたしにほほえみかける。その見事なとんがりぐあいから、わたしは『オズのまほうつかい』のマンチキンたちを連想した。裕福なマンチキン一家が、ドロシーをもてなした夜のそれはそれはおいしそうな晩餐も。「青いくつした」のショーケースには、おとぎ話にも劣らないおいしそうなパンが並んでいる。
 「青いくつした」では、雑誌を読んでぜひいただきたいと思っていた「三日月クロワッサン」、お店の名前の一部を冠した「あしながくつしたパニーニ」、帽子にも劣らない見事なとんがりぐあいにほれぼれした「チョココルネ」、それから焼きたての「クイニーアマン」を購入した。一軒目から既に、「予習」を上回る誘惑にわたしは押され気味である。クロワッサンとクイニーアマンは味も食感も似ているのだから、どちらかひとつにするべきか悩んだが、いちばん重要な目的だったクロワッサンを諦めることも、大好きなクイニーアマンの、しかも焼きたてというお膳立てを拒むことも、わたしにはできなかった。据え膳食わぬは、というやつである。
 マンチキン似の店員さんは慣れた手つきでパンを数え、紙に包んでいく。お店と同じ、そしてとんがり帽子と同じ、あざやかな青色のクラフト紙だ。あしながくつしたの形をしたパニーニは、まさしく青いくつしたを履いたかのように、ふくらはぎまですっぽりと包まれている。ハムと、チーズと、黒こしょうのパニーニ。サーモンやオニオンやトマトやアボカドの誘惑を断ち切って、今回はこれを選んだ。
 するするとくつしたを履かせていく手元をみつめながら、きれいな青ですね、と思わず声を掛けると、店員さんはにっこりとほほえんで「ありがとうございます。わたしたち、青がいちばん好きなんです」と応えてくれる。やはりマンチキンたちのような、こころやさしいひとだ。紙袋も青。爪もきらきらとひかる青。セミロングの髪を結わえるリボンは、ドロシーのワンピースと同じ、青と白のギンガムチェックであった。

 せっかくの焼きたてなので、外のテラスでクイニーアマンをいただく。トレミラは街ぜんたいがベーカリーなので、焼きたてのパンをすぐにいただけるように、通りに面してどのお店のものでもないテラスがずらりと並んでいるのだ。フード・コートのようで面白い。
 外はすこし寒かったが、腕の中のパンのぬくもりのおかげか、不思議とさみしくはなかった。流しのコーヒー売りから、ホットコーヒーを買う。スープ売りからはとうもろこしのポタージュ・スープをすすめられ、大層動揺したが、「あとで、ポタージュによく合うパンを買ったときに、いただきます」と泣く泣く断った。人間の胃に容量があることがうらめしい。わたしの表情があまりにも「泣く泣く」だったためか(わたしはポタージュにも目がないのだ)、スープ売りのおじさんも「泣く泣く」の顔になって、そのときは安くしておくからな、と堅く手を握ってくれた。人情深いスープ売りである。
 クイニーアマンは、期待を遥かに越えてたいへんおいしかった。カラメルの部分がざくざくと芳ばしく、甘くて、ほろ苦い。デニッシュ生地からは白い湯気とともにバターの香りがふんわりとあふれて、さくさくとも、ふわふわとも、ひらひらともつかない食感で噛み締める度に胸が高鳴る。ほんのりと生地に塩分があるのが、甘さとのバランスがとれていてこれまたおいしい。ひとくち食べて、ふたくち食べて、頬張りながらコーヒーを含むと、こんどはきりりとした苦みがすべてを調和させていく。
 わたしはすっかり浮かれてしまっていた。「天国に向かって、かかとを鳴らして駈け上がる」のは、街の入り口のことではない、パンのすばらしさのことだったのだ。幸福とともにわたしは不安になって、トートバッグから件の雑誌を取り出す。予習は完璧だと思っていたが、考えを改めたほうがいいかもしれない。
 おいしそうなパンを、食べきれないからと我慢して、あとからやっぱり食べたかったと後悔するか。欲望のままにパンを買って、お腹がいっぱいになってしまっておのこしをしてしまい後悔するか。後者よりは前者のほうがましだ、と思っていたが、このあとも「泣く泣く」の顔をたくさんしてしまう羽目になりそうである。「長期滞在」という最後の切り札を使う前に、お腹を空かせる手段をすこし考えてみよう。トレミラの街に長く居続けてしまえば、きっとわたしはまるまると太って、この両手もクリームパンになってしまうだろう。
日曜は魔女と教授でじごくゆき

日曜は魔女と教授でじごくゆき

じごくゆきエスカレーターさかさまに駈けたら昏い線路が見える

左手が多機能トイレ、そのさらに左が花子のいまの恋人

どこにでもつながるはずの渋谷駅でどこでもドアがまだ開かない

はりもぐらに分断されゆく東京の西のはずれに魔女は住んでる

滝壷に落ちる 推理もしなくなる 途中で段差が二度変わります

*****

「東京のエスカレーターってちょっと、こわい」
 ささやくように彼女が云うので、スマートフォンから顔をあげる。黒鍵ふたつぶん、高いところで背筋を伸ばす、その項のあたりでまるく切り揃えられた黒い髪が視界に入った。ボブを、こう、まあるく保つのにはね、早起きしなきゃいけないの。たいへんなんだよ。いつだったか切実な目で、そう言っていたことを思い出す。彼女の髪型が、ぼくはとてもかわいいと思う。でもどんなふうに緻密にアレンジしてもそういうぼくのことを、彼女はつまらないと思っている、かもしれない。
「怖い?」「長いでしょう、すごく」「まあ、長いね。地下、深いから」「もし、エスカレーターの途中で、むこうがわに地獄があることに気がついても、もどれないよ。あたふたしているうちに勝手に地獄に着いちゃうよ」「地獄かあ」「くだりならともかく、のぼった先に、地獄があったら、わたし地獄より下の、どれだけひどいところにいたんだって、いやになるよね」「あ、それは、いいね。寓話っぽい」
 明るい声を出すと彼女はすこしこちらを顧みてぼくを睨みつけた。黒鍵ふたつ、を隔てると小柄な彼女もぼくより背が高くなってしまう。高みから見下される黒目がちの瞳は鋭い。
「きみは、似合うとおもうよ。地獄。負けなさそう、鬼とかに」睨まれついでに口にするとくるりと彼女はこちらに向き直った。「だれが鬼よ」あ、曲解だ。参ったなと思っていると改札階が見えた。彼女がぼくをこらしめるならきっといちばん上からぼくを落とすだろう。極端なひとなのだ。北極点に届くまで、すこしの余命を以てぼくは言葉を尽くさなければならない。まあるく整えられた、彼女の髪がまた見たい。

ゴシック・ブルーに溺れる――エミル

 硝子を叩くまばらな雨音に気がついて顔を上げると、窓の向こうは幻想的な蒼に彩られて、まるで海の底のようにエミルの街を浮かび上がらせていた。
 読みさしの「夏採れとまとと三本脚のかかしのための殺人」の続きはすこし、おあずけにして、久しぶりにペンを握ってみようと思う。薄暮時の空と、解決編の推理小説ほど、かわりやすいものはない。いまここにしかない言葉で綴る旅行記は、きっととても贅沢なものになるだろう。

 エミルの街には陽が差さない。一年中、冷たく厚い雨雲に覆われているからだ。ブラン・リリー急行に揺られながら次の目的地を決め兼ねていたわたしは、その一文を見てどれほど陰気で淋しい街なのだろうかと身構えてしまったのだけれど、予想に反し、エミルは美しい街だった。透きとおるほどに磨かれた白い石で造られた建物は、雨が降ると蒼を反射し、ぼんやりと発光して、街そのものがひとつの泉のように輝き始める。通りを往く人々も、ものしずかで心優しいひとばかりだった。ペンションのホストなどは、朝からろくに身支度すら整えずベッドでだらだらと読書をしているわたしのような客にも、眉をひそめることなく紅茶を出してくれる。聞けば、どんな冒険家も、エミルの街では救いようのないひきこもりになってしまうらしい。
「ここには碌な観光名所もなければ、珍しいものが揃う市もない。おまけに天気は年がら年中この有り様です。活字と活字の隙間にひきこもりたくもなるでしょう」
 ホストは自嘲するようにそう言って笑ったけれど、喧騒を離れ、現実も明日の予定も自分の名前すらわすれて読書に没頭できる心地好い場所など、そうあるものではない。エミルの街の白い壁と薄明かりは、大掛かりなスクリーンのように、あらゆる空想を瞼の裏に映し出してくれた。ホストも、それをわかっているから、こうしてわたしたち旅人にあたたかいベッドを寄越してくれるのだろう。まだ静かに湯気を立てているセイロンティにミルクを足しながら、わたしはまた、かかしの三本脚が行き着く事件の真相に、心を奪われはじめている。

 紅茶を飲むと身体がすこし、火照るような心地がしたので、薄く窓を押し開けてみた。ふわり、と霧を含んだような湿った風が、たちまちあたたかな室内にあふれ返る。
 ほんのすこし前までいたスリーヴスの街では、日除けを求めて店から店まで酩酊したミツバチのように蛇行をしなければいけなかったのに、(そして、その都度勧められるままに海老やら貝やらを試食して目的地に着くまでにすっかり満腹になってしまったというのに、)いつの間にか随分と秋めいてしまった。これから北上するならば、この街で新しいコートを買わねばならないだろう。眼下を過ぎる、まあるい傘のひとつひとつがくるくると開くのを見つめながら、これからの季節を共に過ごすコートの色に想いを馳せた。むかし、持っていたものは暗いグレイだったけれど、思いきってあざやかな赤いコートにしてみようか。些か派手だろうか。思いあぐねると向かいのコーポの白い壁にも、色とりどりにイメージが浮かぶ、浮かんでは消える。そうだ、この街に似合う、ネイビーのコートにしよう。近くに仕立屋はあるだろうか。名案とともに嬉しくなって、思わず頬が緩んだ。
 微笑みとともに漏れた息が熱くて、今頃のように、外気の冷たさを思い知る。夜が深まって、秋も深まって、カップの紅茶がすっかり冷めてしまう前に、わたしは夏採れとまとの名探偵振りに刮目しなければならない。静かに軋む窓を、雨の吹き込まない程度にすこしだけ下げて、ブランケットを頭から被った。あのヤドカリ島の密室がどう暴かれるのか。美しきサフラン嬢を殺したのは誰なのか。次にペンを握るときはきっと、わたしの心はエミルの壁に映り込む、活字と活字の隙間の青い海の中にいるのだろう。
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サンタ・クルスをたずねて 短文 31
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