まばたきは よるのおとずれ
ツイッターでやったワードパレットの3つのことばを入れた短文を書くやつ(うろおぼえ)です
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15.ノイヤール/ごちそう、朝日、盃
盃は疾うに空になっている。居酒屋のざわめきは心地好い環境音と呼ぶにはノイズが多すぎて、酩酊状態の過敏な耳には些かめまぐるしい。電子煙草を霞にしながら、とりとめのないことを考えていた。終電のこと。ペットのこと。来週の自分に委ねた仕事のこと。注文したきり運ばれない烏龍茶のこと。目の前で上機嫌に喋っている、彼のネクタイの結び目が僅かに弛んでいること。
「それで、それでね、先輩。ハムスターってやっぱり液体だから、まわしすぎると、分散されちゃうとおもうんです」
「ああ」
「でも、まわし車が密室だったとしたら、ほら、中学生の理科で習った、質量保存の法則? あれのおかげでハムスターはハムスターでいられるはずなんです」
「うん、そうだな」
「だから密室の扉を開けた瞬間ハムスターは…………ねえ、先輩、聞いてます?」
聞いてるよと応えようか聞いてねえよと応えようかしばし思い倦ねた。冷めてしまったからあげをひとつ、口に含んでとりあえず「ああ、うん」と曖昧な相槌を打つ。ふたつ年下のこの顔の綺麗な後輩は、酒に酔うととにかくよく喋るのである。それも、なんだかよくわからない、哲学的というか、概念的なことを。愚痴や泣き言でないだけお利口ではあるのだが、真面目に相手をしているとこっちの頭がおかしくなってしまう。彼とふたりで盃を交わすようになって、随分と「聞き流す」ことが上手くなってしまった。
「聞いてないでしょ、先輩。…………でも、」息継ぎをするようにそこで言葉を切り、彼はハイボールを口に含む。つられて右手を持ち上げて――そうだ、お猪口もグラスも空っぽで、烏龍茶はまだやって来ないのだ。眉を寄せたのに目敏く気づいて、よくできた後輩は自分のジョッキをこちらに差し出した。そんな気遣いができるくらいならもう少し話題を選べよ、と、文句を言うのは後回しにして、炭酸水の冷たさで喉を潤す。
「でも、相槌は打ってくれるし、こうやって夜が更けるまで俺につきあってくれる、やさしいですね、先輩は」
「そう思うんならもうちょっと敬えよ、お前」
「うやまってますよ」
「嘘つけ」
ジョッキを返しながら悪態を吐く。不本意そうに肩を竦めて、それでいて楽しそうに、男は枝豆を摘まんでいる。
茹でたての瑞々しい湯気はすっかりただの水分に還って、陶器の皿に溜まってしまった。若鶏のからあげも。甘い味のだしまき卵も。どんなごちそうだってものの数分で経年劣化と呼ぶに相応しい姿に相成って、暗い木目のテーブルの上で流行り過ぎのポップスみたいに化石になっていく。「魔法がとけちゃうんですよ、シンデレラみたいにね」いつだったか、彼は冷めた料理をそんなふうに喩えてみせた。午前零時に馬車がかぼちゃに変わるとき、枝豆が化石に変わるとき、きっとこいつはハツカネズミに向かって量子力学の話をしているのだろう。本当に滅茶苦茶な男だ。
「うそじゃないのに」
すこしだけ、拗ねたように口角を上げて、それから男は顔を伏せる。おいお前、寝るなよ、と箸の先を向けると、「寝ませんよ、今夜は寝ません。先輩には朝までつきあってもらいます」と忌々しいことをはっきりと宣言される。こうなってしまうと大抵は彼に流されて、始発を待ってしまうのが常である。どうしてこんなにこの男に弱いのか、この男に甘いのか、素面になって考えてみてもいつもいつも、答えは出ない。
「新宿駅から朝日を見ながら、ハムスターの話をしましょうよ」
誰がするか、馬鹿。メニューの角で小突きながら左手は呼び出しボタンを押している。烏龍茶のゆくえを尋ねる、そのついでに、串揚げの盛合せでも頼んでまた、くだらない魔法にかかってしまおう。
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21.クラン・ドゥイユ/檸檬、跳ねる、視線
檸檬って、爆弾らしいよ。このまえ、本で読んだんだよ。数歩前を歩く友人は振り返ることもなく、襟首の白を見せつけながらそう言った。
「梶井基次郎だろ」あー、なんか、そんな名前だった。「有名なひとだよ」ふうん、よく知ってるなあ、さすが図書委員。「図書委員は関係ないけどさ、」心地好い声は夏の温度に乱反射して、うしろを歩く私の耳を掠める。彼の声は、檸檬水のようだと、折りに触れ私は思う。涼やかに爽やかに肺に沁みるのに、いつもどこかせつなくて、喉が熱くなる。
「それならお前、いま、爆弾魔だな」
何とはなしに口にすると、彼はようやくすこしだけ歩く速度を緩めてこちらを顧みた。その右手には彼のお気に入りの、レモンソーダが握られている。丸みを帯びたペットボトル。その透明にさかさになって、夕暮れの街がぶら下がる。
「爆弾魔なあ、たしかに」そう言ってふっと口角を上げて、相槌とともに一瞬の狂いもなく、唇は動く。こうして面と向かって言葉を、視線を交わすとき、私はいつも彼の檸檬に燃やされる。酸が骨を融かすように、私の身体はいくつもの泡になってしまって、なんだか泣きたくなる。爆弾魔だ、と、心の中だけで繰り返した。私の世界を、私の感情を、まなざしだけで破壊する。
「なあ、それなら一緒に、吹き飛ばしちゃおうか」
「…………何を?」
「うーん、社会とか」
「適当に喋るなよ、お前」
「まあ、うん、そういう、反骨精神とか、あんまりないよな、俺もお前も」
「俺は加害者側じゃなくて、吹き飛ばされるほうだよ」
「ん?」
「いつもお前がしっちゃかめっちゃかにしていくだろ、俺の秩序を」
「はは、お前の秩序を?」
からからと笑って、不意に、彼が手を伸ばす。
冷たい指先が掠めるように頬に触れた。瞬間、早送りのフィルムのように凍りつく、心臓が跳ねる、背後に迫っていた踏切で、遮断機の降りる音がする、赤いランプが斜陽に融けて、星座のように熱くなる。
「…………何」
つとめて冷静な素振りをしようとして随分と不機嫌そうな、低い声を出してしまった。笑うしかないな、と我ながら呆れてしまう。男は、勿論笑っている。性格が悪いのだ。「怒るなよ、ごめんって。なんでもないよ」触れるだけ触れた指がすぐに離れていく、一瞬の通過電車を許すように。ほらそうやって壊していくのだ、この爆弾魔。人の気も知らないで。
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24. マル・ダムール/火照る、伸ばす、夜
古びた戸建の屋根をぴしぴしと軋ませる、その台風の名前をわたしは知らない。だいたいたかが気象現象の、そのひとつひとつに律儀に名前をつけるのもどうかと思うのだけれど、能天気なかの男は「いいんじゃない? 名前があったほうが親しみやすいでしょ」などと宣って十二分の一の梨のかけらをしゃくりと齧る。
男は、隣人である。「感じのいい、誠実そうな眼鏡の青年」と、「馴れ馴れしい、やたらと口のまわる眼鏡のクソガキ」を砂糖と卵白のように撹拌して焼き上げたかのごとき人物である。初対面の頃などはもっと「感じのいい」のわりあいが大きく、「感じ」だけではなく人あたりもよければ声の耳ざわりもよい砂糖細工のような好青年だったのだけれど、対面する度会話をする度卵白は空気を含んで、いまではすっかりこのふてぶてしさである。歳上のわたしに敬語を使わなくなったのも、人の家の縁側を我が物顔で占領し梨を喰うのもまあいいとして、わたしの愛犬とわたしよりも仲睦まじくしているのはどうなんだ。シロも嬉しそうだし。「安直な名前だね」なんてけちをつけてきた男の腹に、カスタードクリームのようにとろけてひろがって、幸福そうに眠っている。度し難い。
「君なら台風とも仲良くなれるんだろうな」
精一杯の皮肉を込めて呟いたけれど、彼は「まあそうだね」としれっと肯定してくるのだから糠に釘である。菓子盆に手を伸ばすと、爪楊枝をなめらかに梨に突き立てて、魔法の杖のように掬い上げながら、わたしを見た。
「あなたとも仲良くなれたわけだからね」
「どこが良いんだ、どこが」
「違うの? 仲が良くなきゃ家に上げて梨を振る舞ったりしないでしょ、ねえシロ」
わん。シロを味方につけるなと言いながらわたしも梨を齧る。いただきものの豊水は甘く瑞々しい。夏の夜の纏わりつくような湿気を割くように、さくり、目をみはるほどの涼やかさを閉じ込めたそれは、プールサイドか、打ち水か、通り雨を凝縮したかのように、白く透明で冷たいのだ。
「そんなに怒らないでくださいよ」
たまに思い出したように丁寧語になる。成人男性にしてはやや細い指があやすように髪を梳く。他人の頭に勝手に触るな、習ってこなかったのかおまえは、と一発張り倒したいところなのだが、何故かわたしはそれができない。痛覚などないはずの傷んだ毛先が、ちりちりと焼けるように敏感になる。身体は火照るような、あるいはさんざめく星のようにきりきりと冷えるような、不思議なせつなさに襲われる。ああこれだから、こうなってしまうから、この男は苦手だ。目をあわせると昏い瞳にわたしの姿が映っている。ため息がふれあうほどに近づいて、男は微笑む。
「でもね、怒った顔も素敵だと思いますよ」
「わたしは君のそういうところが全面的に嫌いだよ」
「酷いなあ、ねえシロ」
「わん」
「シロを味方につけるな」
「僕はあなたのことが好きですよ」
「わん」
「…………シロに向かって言うな」
「わん」
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15.ノイヤール/ごちそう、朝日、盃
盃は疾うに空になっている。居酒屋のざわめきは心地好い環境音と呼ぶにはノイズが多すぎて、酩酊状態の過敏な耳には些かめまぐるしい。電子煙草を霞にしながら、とりとめのないことを考えていた。終電のこと。ペットのこと。来週の自分に委ねた仕事のこと。注文したきり運ばれない烏龍茶のこと。目の前で上機嫌に喋っている、彼のネクタイの結び目が僅かに弛んでいること。
「それで、それでね、先輩。ハムスターってやっぱり液体だから、まわしすぎると、分散されちゃうとおもうんです」
「ああ」
「でも、まわし車が密室だったとしたら、ほら、中学生の理科で習った、質量保存の法則? あれのおかげでハムスターはハムスターでいられるはずなんです」
「うん、そうだな」
「だから密室の扉を開けた瞬間ハムスターは…………ねえ、先輩、聞いてます?」
聞いてるよと応えようか聞いてねえよと応えようかしばし思い倦ねた。冷めてしまったからあげをひとつ、口に含んでとりあえず「ああ、うん」と曖昧な相槌を打つ。ふたつ年下のこの顔の綺麗な後輩は、酒に酔うととにかくよく喋るのである。それも、なんだかよくわからない、哲学的というか、概念的なことを。愚痴や泣き言でないだけお利口ではあるのだが、真面目に相手をしているとこっちの頭がおかしくなってしまう。彼とふたりで盃を交わすようになって、随分と「聞き流す」ことが上手くなってしまった。
「聞いてないでしょ、先輩。…………でも、」息継ぎをするようにそこで言葉を切り、彼はハイボールを口に含む。つられて右手を持ち上げて――そうだ、お猪口もグラスも空っぽで、烏龍茶はまだやって来ないのだ。眉を寄せたのに目敏く気づいて、よくできた後輩は自分のジョッキをこちらに差し出した。そんな気遣いができるくらいならもう少し話題を選べよ、と、文句を言うのは後回しにして、炭酸水の冷たさで喉を潤す。
「でも、相槌は打ってくれるし、こうやって夜が更けるまで俺につきあってくれる、やさしいですね、先輩は」
「そう思うんならもうちょっと敬えよ、お前」
「うやまってますよ」
「嘘つけ」
ジョッキを返しながら悪態を吐く。不本意そうに肩を竦めて、それでいて楽しそうに、男は枝豆を摘まんでいる。
茹でたての瑞々しい湯気はすっかりただの水分に還って、陶器の皿に溜まってしまった。若鶏のからあげも。甘い味のだしまき卵も。どんなごちそうだってものの数分で経年劣化と呼ぶに相応しい姿に相成って、暗い木目のテーブルの上で流行り過ぎのポップスみたいに化石になっていく。「魔法がとけちゃうんですよ、シンデレラみたいにね」いつだったか、彼は冷めた料理をそんなふうに喩えてみせた。午前零時に馬車がかぼちゃに変わるとき、枝豆が化石に変わるとき、きっとこいつはハツカネズミに向かって量子力学の話をしているのだろう。本当に滅茶苦茶な男だ。
「うそじゃないのに」
すこしだけ、拗ねたように口角を上げて、それから男は顔を伏せる。おいお前、寝るなよ、と箸の先を向けると、「寝ませんよ、今夜は寝ません。先輩には朝までつきあってもらいます」と忌々しいことをはっきりと宣言される。こうなってしまうと大抵は彼に流されて、始発を待ってしまうのが常である。どうしてこんなにこの男に弱いのか、この男に甘いのか、素面になって考えてみてもいつもいつも、答えは出ない。
「新宿駅から朝日を見ながら、ハムスターの話をしましょうよ」
誰がするか、馬鹿。メニューの角で小突きながら左手は呼び出しボタンを押している。烏龍茶のゆくえを尋ねる、そのついでに、串揚げの盛合せでも頼んでまた、くだらない魔法にかかってしまおう。
/*----------*/
21.クラン・ドゥイユ/檸檬、跳ねる、視線
檸檬って、爆弾らしいよ。このまえ、本で読んだんだよ。数歩前を歩く友人は振り返ることもなく、襟首の白を見せつけながらそう言った。
「梶井基次郎だろ」あー、なんか、そんな名前だった。「有名なひとだよ」ふうん、よく知ってるなあ、さすが図書委員。「図書委員は関係ないけどさ、」心地好い声は夏の温度に乱反射して、うしろを歩く私の耳を掠める。彼の声は、檸檬水のようだと、折りに触れ私は思う。涼やかに爽やかに肺に沁みるのに、いつもどこかせつなくて、喉が熱くなる。
「それならお前、いま、爆弾魔だな」
何とはなしに口にすると、彼はようやくすこしだけ歩く速度を緩めてこちらを顧みた。その右手には彼のお気に入りの、レモンソーダが握られている。丸みを帯びたペットボトル。その透明にさかさになって、夕暮れの街がぶら下がる。
「爆弾魔なあ、たしかに」そう言ってふっと口角を上げて、相槌とともに一瞬の狂いもなく、唇は動く。こうして面と向かって言葉を、視線を交わすとき、私はいつも彼の檸檬に燃やされる。酸が骨を融かすように、私の身体はいくつもの泡になってしまって、なんだか泣きたくなる。爆弾魔だ、と、心の中だけで繰り返した。私の世界を、私の感情を、まなざしだけで破壊する。
「なあ、それなら一緒に、吹き飛ばしちゃおうか」
「…………何を?」
「うーん、社会とか」
「適当に喋るなよ、お前」
「まあ、うん、そういう、反骨精神とか、あんまりないよな、俺もお前も」
「俺は加害者側じゃなくて、吹き飛ばされるほうだよ」
「ん?」
「いつもお前がしっちゃかめっちゃかにしていくだろ、俺の秩序を」
「はは、お前の秩序を?」
からからと笑って、不意に、彼が手を伸ばす。
冷たい指先が掠めるように頬に触れた。瞬間、早送りのフィルムのように凍りつく、心臓が跳ねる、背後に迫っていた踏切で、遮断機の降りる音がする、赤いランプが斜陽に融けて、星座のように熱くなる。
「…………何」
つとめて冷静な素振りをしようとして随分と不機嫌そうな、低い声を出してしまった。笑うしかないな、と我ながら呆れてしまう。男は、勿論笑っている。性格が悪いのだ。「怒るなよ、ごめんって。なんでもないよ」触れるだけ触れた指がすぐに離れていく、一瞬の通過電車を許すように。ほらそうやって壊していくのだ、この爆弾魔。人の気も知らないで。
/*----------*/
24. マル・ダムール/火照る、伸ばす、夜
古びた戸建の屋根をぴしぴしと軋ませる、その台風の名前をわたしは知らない。だいたいたかが気象現象の、そのひとつひとつに律儀に名前をつけるのもどうかと思うのだけれど、能天気なかの男は「いいんじゃない? 名前があったほうが親しみやすいでしょ」などと宣って十二分の一の梨のかけらをしゃくりと齧る。
男は、隣人である。「感じのいい、誠実そうな眼鏡の青年」と、「馴れ馴れしい、やたらと口のまわる眼鏡のクソガキ」を砂糖と卵白のように撹拌して焼き上げたかのごとき人物である。初対面の頃などはもっと「感じのいい」のわりあいが大きく、「感じ」だけではなく人あたりもよければ声の耳ざわりもよい砂糖細工のような好青年だったのだけれど、対面する度会話をする度卵白は空気を含んで、いまではすっかりこのふてぶてしさである。歳上のわたしに敬語を使わなくなったのも、人の家の縁側を我が物顔で占領し梨を喰うのもまあいいとして、わたしの愛犬とわたしよりも仲睦まじくしているのはどうなんだ。シロも嬉しそうだし。「安直な名前だね」なんてけちをつけてきた男の腹に、カスタードクリームのようにとろけてひろがって、幸福そうに眠っている。度し難い。
「君なら台風とも仲良くなれるんだろうな」
精一杯の皮肉を込めて呟いたけれど、彼は「まあそうだね」としれっと肯定してくるのだから糠に釘である。菓子盆に手を伸ばすと、爪楊枝をなめらかに梨に突き立てて、魔法の杖のように掬い上げながら、わたしを見た。
「あなたとも仲良くなれたわけだからね」
「どこが良いんだ、どこが」
「違うの? 仲が良くなきゃ家に上げて梨を振る舞ったりしないでしょ、ねえシロ」
わん。シロを味方につけるなと言いながらわたしも梨を齧る。いただきものの豊水は甘く瑞々しい。夏の夜の纏わりつくような湿気を割くように、さくり、目をみはるほどの涼やかさを閉じ込めたそれは、プールサイドか、打ち水か、通り雨を凝縮したかのように、白く透明で冷たいのだ。
「そんなに怒らないでくださいよ」
たまに思い出したように丁寧語になる。成人男性にしてはやや細い指があやすように髪を梳く。他人の頭に勝手に触るな、習ってこなかったのかおまえは、と一発張り倒したいところなのだが、何故かわたしはそれができない。痛覚などないはずの傷んだ毛先が、ちりちりと焼けるように敏感になる。身体は火照るような、あるいはさんざめく星のようにきりきりと冷えるような、不思議なせつなさに襲われる。ああこれだから、こうなってしまうから、この男は苦手だ。目をあわせると昏い瞳にわたしの姿が映っている。ため息がふれあうほどに近づいて、男は微笑む。
「でもね、怒った顔も素敵だと思いますよ」
「わたしは君のそういうところが全面的に嫌いだよ」
「酷いなあ、ねえシロ」
「わん」
「シロを味方につけるな」
「僕はあなたのことが好きですよ」
「わん」
「…………シロに向かって言うな」
「わん」